9. 先生の人柄・特技・趣味

雄次さんは父龍雄先生に就いて次のように語っている「父はむやみに多趣味であった。学校自体も、本職より、どうしたことか、東寺の経営している東寺中学校や今日、日本一小さい大学といわれる種智院大学の前身の専門学校の報が好きになり、月給もろくろくくれないのに随分力を入れたようだ。なぜだろうか。その理由は父の縁で講師をやってみて、少しわかったような気がする。この真言宗という恐ろしく古い宗派の雰囲気には、新しい宗派の持っている熱心さもない代わり、あの一種独特な徧執的な匂いがないのだ。徹底的な俗物性の用でいて、反面大悟し切ったような,ともかくあっけらかんとした面白さがそこにあるのである。」

このように学校の方もお門違いの方へ行ってしまったのも、父はお寺や僧侶が好きで、喜んで勤務を続け、その間に、真言宗の坊さんに多くの知己を得られた。

  • ○ 刀剣鑑定

    先生の趣味と特技の一つに刀剣の鑑定がある。刀剣の鑑定では名声が高く、たびたび鑑定の依頼を受け、また刀の鑑定の仕方を指導した。先生自身も多数の名刀や刀の鍔などを所蔵したがしかし、戦時中にこれらを子孫に残しても無意味と考え、比較的良いもの半分ほどを処分した。最も良いもの 4, 5 本と残りの刀剣類は、蔵に堀った穴の中に埋めおかれた。終戦後これらを掘り出されたところ、100 本ほどが赤さびになっており、どうにか元の姿で残ったものは 15~16 本であった。

  • ○ 剣  道

    剣道の腕前は先に述べたが、先生は山岡鉄舟の孫弟子にあたり、無刀流(山岡流)の奥義を窮められた。令息の雄次さんは武徳会の初段であるが、先生には全然歯が立たなかったとのことである。

  • ○ 弓  道

    先生はまた弓道の達人でもあった。先生には弓の師匠がいなく、我流であったが、7 分 5 厘の強弓を引かれ、遠矢の名手であった。毎年三十三間堂で行われる通し矢の大会には、いつも出場して名人ぶりを発揮された。多くの射手は、矢が廊下の天井に当たらないように、片膝をついて弓を構えたが、先生は強弓であるためその必要がなかった。このことは先生のご自慢でもあった。練習は、宮本武蔵が吉岡一門と決闘したお堂横の矢場でされたが、那須与一の子孫である弓道師那須容和さんの師匠格という、これまた奇妙な関係になることにもなった。

  • ○ 一芸に秀でた人の集まり

    先生は、一芸に打ち込んでいる職人風の人が好きで、先生の宅には、弓の弦造り、車のわだち造り、標本作りなどの各名人や、猟師、骨董屋などが遊びに来て、先生とともに酒を飲んだ。

    島津製作所の二代目島津源蔵(幼名は梅次郎)とは大変気が合い、深い交流があった。その関係で先生は島津製作所の顧問を引き受け、標本製作などの指導をされたが、その間いろいろと考案された。例えば、その頃の人体模型は石膏で造られていたので、壊れやすい欠点があった。先生は石膏の代わりに新聞紙を溶かして使うことを考えつかれた。先生のこの考案がもとになって、後に島津のマネキンが全国のショウウインドーをにぎわすこととなった。先に述べたように、島津源蔵も先生のメダカ研究のため、機械器具や試薬などを提供し、協力した。

/medaka