8. 当時の會田家の情況

写真 28

写真 28. 會田雄次

写真 29

写真 29. 會田芳子

1903(明治 36 年)熊本から京都へ帰郷されてまもなく夫人を亡くされ、幼い息子と娘を養育しながら男やもめの生活を続けられたが、しばらくして伊勢、四日市の九鬼家の一族から後妻を迎えられた。そして 1916(大正 5 年)には子息の次男雄次さんが誕生した。雄次さんは 1967(昭和 42 年)の中央公論 3 月号の「新撰組とメダカ学者」と題したエッセイのなかで「母は私が四歳の時、二人の妹を残して死んだ。…母の記憶も、母に対する懐かしさもほとんどない、…その後父はもう結婚しなかったけれど、私達兄や姉を含め、お手伝いであった今の養母の愛情によって、別に母の居らぬ寂しさも感ぜず育てられたからである。それに父は老年の子供だった私達にはずいぶん甘かった…。」と記述している。雄次さんの青年期には兄や姉と妹を次々と胸の病で失い、一人残った妹の芳子さんまでカリエスで倒れる情況であった。先生はひどく芳子さんの健康を心配されていた(詳細は後述)。京都帰郷後の十分な収入のない中、先生は様々な苦悩と寂しさに耐えて、日々ひたすらメダカの研究に集中された。

(註:會田雄次、(1916-1997). 日本の歴史学者. 京都大学名誉教授。保守派の論客として知られる.)

/medaka