5. 京都への帰郷とその後

  • ○ 京都への帰郷直後の不幸

    先生のお父様正豊が老衰による死去により、熊本の生活は 5 年間で終わりを告げ、1903(明治 36)年 9 月 16 日付けで五高等学校教授を退職され、夫人と幼い二人の子供を伴って京都へ帰られた。この年、英国留学から帰国した漱石も、先生と同時に五高等学校を辞め一高に転任した。

    先生が京都へ帰郷されてまもなく(1906 年、明治 39 年頃と思われる)不幸が相次いで起こった。父様正豊の死を看取り、まもなく二人の幼子を残して最愛の夫人が病死された。

  • ○ 京都での再就職

    京都へ帰郷された翌年に母校の三校の講師になられたが、1 年あまりで解職となり、1914 年(大正 3 年)から真言宗派連合大学の教授兼京都中学校教諭になられた。ここでの給与は非常に低かった。子息の雄次さんによれば「父はむやみに多趣味であった。学校自体も,本職よりどうしたことか、東寺の経営している東寺中学校や今日の日本一小さい大学といわれる種智院大学の前身の専門学校の方が好きになり、月給もろくろくくれないのにずい分と力を入れていたようだ。なぜだろうか。その理由は、父の縁で講師をやってみて、すこし分かったような気がする。この真言宗というおそろしく古い宗派の雰囲気には、新しい宗教の持っている熱心さもない代わり、あの一種独特の徧執的排他的な匂いがないのだ。徹底的な俗物性のようでいて、反面大悟し切ったような、ともかくあっけらかんとした面白さがそこに在るのである」(中央公論 昭和 42 年、3 月号、252p)。

    図 4

    図 4. 京都で勤務された学校名と勤務年

    先生はお寺や僧職が好きで、喜んで勤務を続けられた。その間、真言宗の僧侶に多くの知己をえられた。1906(明治 39)年には 1 月 18 日づけで京都高等工芸学校の講師になられ、数年間勤務された後、1917(大正6)年 7 月にここの教授に任命された。この学校で 1941(昭和 16)年まで 24 年間勤められた。ここが先生の主要な職場であったが、週一回出ればよいという閑職であったので、残念ながら学校の中での研究をすることは、ほとんど不可能であった。なお、終戦の前後は京都女子専門学校(京都女子大)の講師になられた。

/medaka