2. 先生のおいたち

  • ○ 會田先生の両親のこと

    會田先生の祖先は代々会津矢吹(現在の福島県西白河郡矢吹町)の苗字帯刀を許された大庄屋であった。幕末のころ若き総領息子で先生の父會田正豊は京都へ出奔し、どうゆうつてがあったか有栖川熾仁(タルヒト)親王の剣客として仕えた勤王派の方であった。正豊は山岡流の剣士で、その腕は相当のものであったと伝えられている。

    熾仁親王が早く亡くなってそれまでは比較的調子のよかった正豊も、旧朝敵松平藩士ということで出世の道が閉ざされ、判事補のところまでは行ったが、官界に見切りをつけ、後に公証人になられた。明治 36 年に現在の左京区川端東の地で亡くなった。

    先生の母はトモと云い京都の壬生(ミブ)の外科医磯貝家から嫁がれた。娘の頃、磯貝家には絶えず、しかもきまって夜半、新撰組の負傷者が担ぎこまれた。傷の手当の手伝いはトモの役目であり、気丈な性質だった母トモは負傷者や死人になれっこになっていた。面長で美しい娘であったトモは新撰組のアイドルでもあった。近藤勇からも可愛がられたらしく、署名入りの大きな扇子をもらっていた(以上、雄次さんから伺う)。

  • ○ 會田先生の幼少時代

    會田龍雄先生は、1871 年(明治 4 年)11 月 21 日、京都川東(現在の京都市左京区夷川東入秋築町)で長男として生まれた。先生が 4 才のとき、泥棒が押し入ったことがあった。父正豊は日本刀で立ち向かい、泥棒の片腕を切り落とした。泥棒は降参っといって座り込んだので、気丈なご母堂が手燭をもち、先生の手を引いて現場に行かれたところ、泥棒は水を所望した。ご母堂が水を与えられたところ、泥棒は血を吐き、水を入れた器を真っ赤に染めて死んだ。先生の母はその時まだ 30 才くらいで、その若い女性が灯をさげて小さい子供と一緒に、何をするか判らない盗賊に近寄るというのも乱暴だが、先生の母トモにとってはそんなことはなんでもなかったのである。この出来事は幼い先生に異常な体験で強烈なショックとして残り、生涯消えることがなかったと先生の家族に話されていたとのことである。

    先生は現在の住所から銅駞(どうだ)校(小学校)に入学。小学生の頃は近くの牧場があり、よく遊びに行かれた。「父が後に動物学を志したのは、その影響があると思われる」と子息は語っていた。

  • ○ 三高・東京帝国大学時代

    やがて先生はのちの京都一中の前身の京都府尋常中学校を経て、明治 28 年 (1888) に第三高等中学校に入学した。中学のときからずっと同級生として親しかった学友の中に桑原武夫の厳父、桑原隲蔵(のちの京大東洋史教授)、三高から大学にかけては坂口昇(のちの京大西洋史教授)や鉄の本田光太郎 (1870-1954) がいた。

    三高を明治 26 年に卒業されて、帝国大学理科大学動植物学教室に入学し、箕作佳吉教授 (1857-1909) や飯島魁教授 (1861-1921) の指導をうけられ、明治 29 年 (1869) に同大学を卒業されたが、この学科の卒業生は先生一人であった。

写真 1

写真 1. 箕作佳吉 博士

写真 2

写真 2. 飯島 魁 博士

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写真 3. 東京帝国大学理科大学卒業の頃の龍雄先生

第 1 図-1

第 1 図-1. 先生の 1 周忌 (1958) に會田邸に伺った折息女芳子さんから先生の履歴書を預かりその場で急いで書き写し、備考欄には書き写した後、芳子さんから色々聞き取った事を速記した。

第 1 図-2

第 1 図-2. 先生の履歴書(第 1 図-1 の続き)

写真 4

写真 4. 箕作・飯島魁両教授を囲み学科生一同

写真 5

写真 5. 大学卒業記念写真
学科卒業生はただ一人であった.

/medaka